縄文文化と弥生文化、なぜ・どのように違うのか

     東京大学大学院教授 辻 誠一郎  

 2016年11月26日、第14回仙台縄文塾が東北電力グリーンプラザ「コミュニティールーム」で開催された。講師は東京大学教授の辻誠一郎氏。「縄文文化と弥生文化、なぜ・どのように違うのか」というテーマで、縄文と弥生という二つの文化の違いや、変容を遂げながらもどのように存続したかについて、環境史の視点から講演を行った。

 

 

  縄文文化も弥生文化も、決して消えてしまったわけではなく、今も生き続けているものがたくさんあります。私たちを巡る生活環境がいつ頃できあがり、どのように現在まで受けつがれてきたのかをお話していきたいと思います。

 

縄文時代の環境変動

 現在は間氷期という温暖な時代です。これはだいたい8000年前の縄文時代から続いています。この環境が縄文人の生活に非常に大きな影響を与えました。

 地球の温暖化によって海水面が上がり、日本は現在のような列島になりました。海面は内陸にも深く進入し、たくさんの内湾を作りました。内湾の干潟は海の中で一番生物生産量が多い、海の幸がもっとも豊かな環境です。海の環境の変化に対応してその資源を利用していくというのは、縄文文化のひとつの大きな特徴だと言っていいと思います。

 約2万年前の後期旧石器時代は針葉樹林がものすごく多かった時代ですが、環境の温暖化によって南の方は照葉樹林、北の方は落葉広葉樹林へと変化しました。縄文遺跡は北の落葉広葉樹林地帯に圧倒的に多く、規模も大きい。南の照葉樹林地帯にはそんなに大きな集落はありません。弥生時代になるとそれが逆転し、弥生都市と言ってもいいようなものは九州から中国地方、河内平野にかけて出現します。

 

東北北部、八戸上北地方の環境変動史

 私達は今、八戸・上北の環境変動について調査研究をしています。これまで考古学では関東での研究成果がどこにでも当てはまるというような考え方をしていましたが、実際には三内丸山遺跡を背後に擁する青森湾や八戸・上北地方の縄文時代の環境変動は、関東平野のそれとはかなり様相が異なっています。

 約9000年前から約6000年前にかけて、海面が奥入瀬の方まで入ってきており、現在の八戸市街も海の下でした。それが約5900年前に十和田火山は日本列島最大級と言われる巨大噴火をし、大量に噴き出した軽石によって海が一気に埋まってしまったのです。これは気候の寒冷化によりゆっくりと海が引いていった関東平野とはまったく違いますね。

 ほどんど人っ気のない八甲田山中の田代平では、それまでブナ林だったのがナラ林に変わります。噴火によりブナ林が焼けてしまったので、それが回復するまでの約400年の間、ミズナラ林がカバーしていたのです。

 三内丸山遺跡や青森平野南部の大矢沢野田遺跡では、落葉広葉樹林だったのがほとんどクリ林に変わります。これはその頃から居住が始まったからです。

 三内丸山遺跡を中心に東北北部から北海道の石狩低地帯あたりにかけて広まった円筒土器文化は、およそ2000年間続いた文化です。日本列島の中でもこんな長期にわたって続いた文化は他にありません。最近わかってきたのは、十和田火山の巨大噴火の直後に円筒土器文化ができあがったということです。それ以前の集落は、数が少なく、人口も少なかった。それがこの巨大文化後、突然降って湧いたようにたくさんの集落ができ、しかも円筒土器という特殊な形の土器を作る文化が一気に広がったのです。

 なぜこのようになったかについては、これまでの考古学のように出土した土器や石器を調べるだけでは決してわからないことかもしれません。

 

縄文時代の集落

 三内丸山遺跡は縄文時代を代表する拠点集落です。多くの人たちが住んでいただけでなく、周辺の集落から人がたくさん集まってくる場所だったと考えられています。

 人々が集住している場所があり、その周辺にクリ林やウルシ林などを設置しています。さらにその周辺には雑木林があり、そこでウサギやムササビといった動物を狩猟していました。それらの毛皮を糸魚川の翡翠などと交易していたのだと思われます。河川では淡水漁労を行い、舟で海に出て内湾漁労も行う。これらの品も干物にして内陸に運んでいたのではないでしょうか。

 縄文時代、八戸湾から奥入瀬渓流の方まで海が入ってきており、これを古奥入瀬湾といいます。ここには長七谷地貝塚と日ヶ久保貝塚という貝塚を持つ二つの集落が古奥入瀬湾の北岸と南岸にありました。十和田湖の巨大噴火後、古奥入瀬湾は埋まってしまいました。その直後、是川に一王寺遺跡ができますが、これは三内丸山遺跡のように集住域の周りにクリ林を擁する遺跡となっています。

 

クリの時代からトチノキの時代へ

 亀ヶ岡石器時代遺跡や御所野遺跡、神田(かみた)遺跡などを調べるとトチノキの皮や花粉が大量に出土します。このことから、縄文時代中期の後半から後期、晩期にはクリに加えてトチノキも植物資源の主役になっていったことがわかります。トチノキにはサポニンという毒性があり、アク抜きしないと食べられません。触れるとかぶれるウルシなどもそうですが、このような毒性には邪悪なものを追い払うという意味合いもあり、これは非常に重要な縄文人の精神文化なのではないかと思います。

 人のトチノキ利用には約5000年前、約4700年前から4500年前、そして約4000年前の三段階があります。これら三つの段階は、気候が短期間寒冷化した時期だということがわかっています。これまで依存してきた食料が獲得できなくなったため、人々は生き残るためにトチノキを利用するようになったのです。

 こうしてクリの時代からトチノキの時代へとなっていくのですが、クリがまったく利用されなくなったわけではなく、多角経営を行うようになる。また、この時期の東北地方ではイヌビエが栽培された可能性があり、西日本の方では朝鮮半島から大豆や小豆が伝わり、文化が少しずつ変わっていくわけです。

 

縄文時代から弥生時代へ

 これから縄文時代から弥生時代への大きな変動期について考えて行きたいと思います。

 弥生文化は約2500年前から3000年くらい前に始まるのですが、待機中における炭素14の生成率を調べてみると、紀元前900年から700年くらいと、紀元前400年から300年くらいの時期に気候が寒冷化していることがわかっています。これはまさに、水田稲作農耕が押し寄せてきた時期と一致しています。

 弥生時代中期には東北地方でも水田稲作農耕が行われており、青森には砂沢遺跡にもその跡が見られます。ですが、気候の寒冷化によって諦めてしまったようです。

 

弥生時代は針葉樹林文化

 静岡県の山木遺跡や登呂遺跡などの弥生時代の遺跡からは、スギで作った板や柱などが数多く出土しています。その切り株の跡から、スギの伐採には鉄斧が使われていたことがわかります。スギは堅いので縄文時代に使われていた石斧では伐採することができません。

 弥生時代にはスギをはじめ、ヒノキ、サワラ、モミ、コウヤマキ、トガサワラといった温帯性針葉樹をよく利用するようになります。建築材だけでなく、指物、曲物、刳物、細長容器、蓋、板、桶などの木器などにもスギが利用されました。これは針葉樹林文化と言ってもいいかもしれません。現在でも温帯性針葉樹はいろんな道具に利用されていますが、それは弥生時代から始まったものなのです。

 

弥生時代の集落

 壱岐島の真ん中の盆地に位置する原の辻遺跡は、低いところに水田があり、丘のような高いところに集住域を作り、その周辺に畑があります。弥生時代の集落は非常に構造的で、きちんとゾーニングがされています。縄文時代の場合、生態系を整然とエリア管理がされていたことがわかる遺跡は、現在のところ、三内丸山遺跡くらいしか見つかっていません。

 鳥取県の青谷上寺地遺跡も比較的高いところに居住域があり、低いところには水田があります。背後にはスギ林が広がっており、資源として利用していました。また、トチノキの栽培も行っていました。狭い水路のところに港があり、外から見えないようになっています。普通、弥生文化は九州から北に向かって伝播していったとされていますが、青谷上寺地遺跡は中国や朝鮮半島から直接伝わり、海を介して交易を行っていたと考えられる、他にはない非常に特徴的な遺跡です。二つの谷がひとつに合流するところがあり、これを二叉の槻思想と言います。異なる二つのものがひとつに統一される中心に町を作る。これは中国から来た思想で、それが踏襲されてこの地が選ばれたのではないでしょうか。

 

日本独自の発酵醸造文化

 今までほとんど言われてきませんでしたが、発酵醸造文化という環境史の視点があります。

 三内丸山遺跡をはじめ、縄文時代にはすでに単発酵による果実酒を作っていたことは間違いありません。原料となるブドウ類など果実には元々糖分が豊富に含まれているので、酵母さえあればほっといてもワインのような酒はできます。これを単発酵といいます。

 弥生時代には米と米麹による酒が作られはじめます。古代だと口噛み酒ですね。唾液の中にあるアミラーゼが米のデンプンを糖化し、あとは酵母が入ることでアルコール発酵できます。濁り酒の醸造ではひとつのタンクの中に蒸した米と麹、そして酵母を入れて作ります。これを並行複発酵といい、弥生人が発明したものだと私は思っています。これは日本独自のもので、世界に例がありません。鮒寿司のように乳酸菌発酵させたものも日本人が発明したものだと思います。

 弥生文化というのは全て大陸から来たものではなく、元々こちらにあった縄文的なものとうまく融合させて作り上げた日本独自の文化です。それが姿を変えながらも現代まで連綿と続いているわけです。だからこそ、日本文化は世界の中でもたぐいまれな、特異なものだと言えるのではないでしょうか。       

(要約・抜粋)