◆縄文と震災―宮戸島の津波被害と貝塚―

2012年1月27日、朝日新聞東京本社本館2階読者ホールで縄文塾を開催。奈良文化財研究所名誉研究員岡村道雄氏が「縄文と震災」について講演を行った。

里浜貝塚

 

宮戸島に残る縄文的暮らし

 

 震災後、毎月宮城県奥松島の宮戸島で80歳前後の人たちからの聞き取り調査や墓石、過去帳などを調べてきて、島に高度経済成長が入ってくる前までと縄文時代の生活とが、そう違わないということがわかってきました。里山にあたる場所を「村山」と呼び入会地として利用している。それから「村井戸」という村で一番いい井戸を集団で管理してきた。また「村萱」と呼ぶ場所で、屋根を補修するための萱を持ち回りで総出で刈っています。そして人々を「講」が繋いでおり、講を通じて葬式と墓、祭りなどの設営もしています。極めて縄文的だと思います。

 なぜこうしたことを調べているかというと、震災復興を行う上で、コミュニティが維持されてきた歴史を探ることが必要だからです。言い方を変えれば、豊かな自然環境の中で、人はいかにその中に組み込まれながら何千年も生きてきたかを探る。それを基本にして復興計画を立てないと、結局は無味乾燥のニュータウンを作るだけになると思います。

 

歴史に助けられた島の人々

 

 宮戸島では引き波で多くの家が海に持っていかれました。仙石線と東名運河の南にあった野蒜集落も壊滅状態です。ここでは345人が亡くなっています。理由の一つは新興住宅地だったので津波の伝承などがなく、日頃からの構えが十分でなかったのだと思います。

 太平洋に面した宮戸島の大浜、室浜、月浜の集落は、ほぼ壊滅し、里浜貝塚がある里浜集落も大きな被害を受けました。ところが人的被害は少なかった。津波の被害を伝承し、注意深く助け合って逃げたからからだと思います。島には、「石仏」と呼ばれる石碑がありますが、大昔の津波の記念碑だと島の人は言っています。そしてもう一ヶ所、津波で人が亡くなったと言い伝えられている場所があります。貞観津波(869年)など過去何回か大津波がきていますが、被害を記憶に留め、くり返し津波の話をしていました。

 

居住地を安全な場所に構えた縄文人

 

青森県三八地方から福島県いわき海岸沿いの約400キロメートルの間に、貝塚が約480ヶ所あります。縄文時代早期の貝塚集落は標高約15メートルのところにあります。ただ当時の海域は現代より低い水準でした。前期、中期、後期の貝塚集落は標高約20~40メートル、晩期で約10~15メートルです。晩期も寒く、海域が下がっています。

 今回の津波で、貝塚集落は、一つも水をかぶっていません。縄文貝塚は、海岸集落の生ゴミ捨て場のことで、標高の高い場所にあります。これに対して「ハマ貝塚」は海辺にあり、津波に襲われています。縄文人は定住生活が安定した早期から干し貝作り、縄文時代の終わり頃には、土器製塩をしていましたが、ハマ貝塚はそうした海辺の生業の場所をいいます。復興に当たって暮らしは丘の上、生業は浜でと、生業と暮らしを分離するよう言われていますが、縄文時代にはそれが実践されていたのでしょう。

  

土地に残された地震の痕跡

 

 里浜貝塚のすぐ前、西畑北地点をボーリングしてみたところ、紀元前4700年のあたりに貝殻を含む厚い砂礫があり、海から陸に上がるにつれて層が薄くなっていることがわかりました。これは三内丸山遺跡のピークの時期より少し後、縄文時代中期の後半です。それから紀元前3130年ごろにも同じような層がありました。これは大湯環状列石が作られた時期、縄文後期の初め頃です。海から砂や貝が流されてきているので、津波堆積だと考えられます。縄文時代には少なくとも3回は津波に襲われた可能性が考えられていたのですが、広がりがわからなかった。震災後に島のいろんな地点でボーリング調査をした結果、縄文時代以来、津波がしばしば襲っていたことがわかってきました。

 土地には、噴砂や液状化、洪水、噴火など災害の痕跡がしっかり記されています。それを考古学的所見と擦り合わせることで、災害の歴史、被害状況などが明らかになります。災害史を教訓にしなければなりません。

 

宮戸島の復興・発展に向けて

 宮戸島の復興と発展に向けて、島の歴史と特性を大切にしながらこれからの地域作りをどうしていくか、地域おこしをどう再開し、発展させていくかということをみんなで考えていけばいいと思います。2011年度は復興プロジェクト第一弾として9月に縄文蕎麦を植えて、11月に刈り取りをして、1月に製麺して食べました。今後は島の人たちと総合討論会をやろうと思っていて、それに向けて地質や植生の研究者が調査をしています。私も民俗調査や社会調査をやっており、島の歴史をトータルに調べ、島の特性・宝を今後にどう伝えていくか、都市計画の研究者に入ってもらって今後の町づくりをどうしていくかなどを考えていきたいと思います。単に新しい復興団地を作るのではなく、自然環境や景観を護り、古道やかつての村落形態も踏襲し、顔が見える、人と人とがつながる町をデザインしていきたいと考えています。

 それから観光。島の二番目の産業は民宿ですが、ほとんど流されてしまい、これを機会にやめる人も多くいます。奥松島縄文村歴史資料館が2012年3月に再オープンしますし、史跡・里浜貝塚の再生、島の復興を島人たちを考えていきたいですね。

 

 (縄文ファイル No.200号より一部抜粋)