◆色の文化史と縄文の自然観

2010年6月25日(金)、東京縄文塾を東京大学本郷キャンパス法文2号館で開催した。テーマは「色の文化史と縄文の自然観」。講師は東京大学教授の辻誠一郎氏。

 

三内丸山遺跡

 

色の文化史と縄文の自然観

 

 今回は「色」の文化史を考えてみようと思います。縄文時代の色文化を最終的には考えたいのですが、まだ資料が限られています。そこで縄文研究の基礎とするために現代から古代を考えてみたいと思うのです。

 また、色の文化を考えることは、同時に縄文の自然観を考えることだと思っています。そこで、縄文人が周辺の環境をどのようにとらえていたのかということも併せて考えてみようと思っています。

 

縄文人と桜、縄文人と卯の花

 

 日本には桜の花の開花を、果実が枝もたわわに実った状態に見立てる「予祝」という風習があります。こうした考え方は水田稲作農耕が日本に伝わってきてから定着したと考えられてきましたが、私はすでに縄文時代にあったのではないかと考えています。また卯の花あるいは空木とも呼ぶ低木も、たくさんのつぼみが数珠状の房のようになり、秋の豊作を予祝しているかのようです。これら日本にもともと自生し、野山の自然の中で際立った特徴をもつ植物たちは、稲作が日本に伝えられる以前から縄文人とも深くかかわり、季節の変化を示すだけでなく、実りの秋を保証するものでもあったと考えられるのです。春先の際立った白色がとても大きな意味をもっていたのかもしれません。

 

縄文人の農業経営

 

 これまで縄文時代は狩猟採集民文化だといわれてきましたが、私は農林業経営がなされていた社会だと考えています。なぜなら広大な面積にわたって森林経営がなされ、樹木の年齢や大きさなどが認知されていたと考えられるからです。たとえば三内丸山遺跡では、集落の広大な面積をクリ林が占めており、今で言う大規模なクリ農家の存在が示唆されるのです。クリ林がけっしてたえることがないことから、資源が枯渇しないシステムができていたことが予測できます。つまり人手をかけてシステムを長期的に維持するという自然観があったことを示しています。

 弥生時代以降の水田稲作農耕や畑作農業であれば基本的には一年間を一サイクルとして管理しますが、樹木の場合、何十年、何百年という単位で経年変化をとらえなければなりません。つまりすぐれた観察者でなければならないようなクリ林などの森林の維持管理を縄文人はやっていたということになります。それはときには世代を超えてしまうので経験したことを子や孫に伝えるシステムもあったことになります。

 

自然界の稀有な紫が世を席巻

 

 中国には「五行思想」というものがあり、「木」「火」「土」「金」「水」に対応した「青」「赤」「黄」「白」「黒」という色と「仁」「礼」「信」「義」「智」という意味があります。こうした思想が古代の日本に伝わります。日本で冠位十二階が制定された折には「紫」に「徳」という意味を持たせて五行の5色に加えられます。そして最高位の色として位置づけられたのです。その理由ははっきりしませんが、自然界では稀有な色であったからかもしれません。

 平安時代になると紫式部が「源氏物語」を著します。作者ははじめは藤式部と呼ばれ、その作品である源氏物語は紫づくしの物語だと言っても過言ではありません。紫に執着する理由の一つとして、当時は藤原氏の天下の時代であり、藤原の「藤」の花の色が紫だったからだと考えることもできます。このように、古代には自然界の稀有さが高貴さとなり、世の中を席巻するということもあったのでしょう。

 

植物の色がもつ大きな力

 

 縄文の色として赤と黒が重要であったことは前の縄文塾でもお話ししました。その赤は太陽であり血潮であって、強い生命力を表徴するものでした。古代でもその例を見ることが出来ます。奈良県には藤ノ木古墳という遺跡があります。この石棺の内側は真っ赤でしたが、中の織物をよく調べた結果、紅花の花粉が大量に検出され、紅花によって染められていたことがわかりました。高位の人を埋葬する時に紅花で染めた物を身にまとわせている事例は、古代エジプトにおいても知られていて、赤が大きなパワーと高貴さをもっていたことは間違いないと思います。

 紅花は西アジアからシルクロードを通って中国に渡り、3~4世紀くらいに日本にやってきました。その赤は縄文からの延長線上に位置づけれれるのではないでしょうか。

 彼岸花も中国から伝わってきてきたもので、縄文にすでに日本に渡来していたと考えられてきました。彼岸のころ、西日本を中心に真っ赤な花を咲かせることでよく知られています。私は彼岸花の赤が重要な意味を持っていると考えています。すなわち赤には邪悪なものを追い払う強いパワーがあると信じられており、田んぼに植えることで、「虫よけ」ができると考えられていたのだと思います。

 

(縄文ファイル NO.179号より一部抜粋)