◆震災を生きる― 縄文からのメッセージ ―

2011年6月24日、第90回目となる縄文塾が東京朝日新聞本社本館2階の読者ホールで開催された。3月に起こった東日本大震災後、初めての縄文塾のテーマは「震災を生きる―縄文からのメッセージ」。講師は東京大学大学院教授・辻誠一郎氏、学習院大学教授・赤坂憲雄氏、首都大学東京准教授・山下祐介氏の三名が務めた。下記は三氏による鼎談の一部。

青谷上寺地遺跡の集落生態系

 

青谷上寺地遺跡の集落生態系

 

辻 4は青谷上寺地遺跡(鳥取県)という弥生時代の遺跡の集落生態系を復元したものです。細い水道によって外海と内海が繋がっていて、津波が来てもほとんど中に入ってきません。集落と海は水道によって繋がっており、そこを船が航行して一番奥に形成されている港に行けるようになっています。

 重要なのは、河川によって埋め立てられた低地です。北側の谷と南側の谷の二股になっており、これが合流するところに建設されている集落は、河川が運んできた物質で形成された高台の上にあるんです。右側と左側から谷が降りてきて、一番重要なところを守っている。壱岐市(長崎県)の原の辻遺跡という弥生遺跡もまったく同じ構造をしています。このような地形をよく理解した上で、高台の上に都市が建設したのだと思われます。

 

赤坂 面白いですね。この図にはイマジネーションをかき立てられます。

 震災後、南相馬市に行ったのですが、一面の泥の海で、ヤツデみたいになっている場所を見つけました。これは何だろうと思って地名を聞いてみたら、「矢沢浦」というのだそうです。つまり、元は浦だったのが、明治30年代に干拓をして水田にしたんです。それが、今回の津波によって全部水に浸かってしまった。人が自然に人為の手を加えたところが、津波によって完全に洗われ、明治30年代以前の浦の風景に戻ってしまったわけです。

 神社も浦の中に作られたものはやられていまいましたが、集落の背後の高台にある山の神様みたいなのが祀られているところは生き残っていました。

 

 今、神聖な場所についてお話されていましたけれど、青谷上寺地遺跡の谷の両側には樹齢が1500年くらいになるようなスギ林がありました。おそらく弥生人は、そこを神聖な場所と捉えていたのではないだろうかと考えています。スギは神様が授けてくれる資源であり、周辺は開発してもいいとされていた。この遺跡からはおびただしい数のスギ材の木工製品がでてきています。近世じゃないかと思われるくらい精巧で、人間国宝でさえ真似て作ることができないような素晴らしいものです。ここにはそういう職人達がたくさんいて、木工製品を交易品として朝鮮半島や中国にももたらしていたのではないかと私は考えています。

 

日本の風土に適さない生業

 

赤坂 今回の震災では三陸の漁村がずいぶんやられてしまいましたが、そこの漁師の方と話をしたところ、実はその村では昭和30年代くらいまでは多くの人は林業を営んでいたんだそうです。漁業を専業にしていたのはむしろ少数派だった。牡蠣の養殖で知られる畠山重篤さんが「森は海の恋人」と言っていたり、漁業のリーダー達が自分の富で山林を買っていたりと、三陸では漁業と林業の結びつきがすごく強いんですね。

 

辻 私は縄文文化では農林業経営をやっていたのではないかと考えています。例えば三内丸山遺跡ではクリ林を育てていました。北上山地は薪炭林で、そこで伐採されたブナは薪や炭といった燃料や、建築材として使用されていた。そういった農林業経営の基本は縄文時代にすでにできあがっていて、それが延々と続いてきたのではないでしょうか。

 すごく古い段階から森林や漁場は資源が枯渇しない持続可能な生態系として管理されてきました。だから、農林業や漁業を切り離してはまずいのではないかと私は考えています。

 

山下 白神山地の麓に砂子瀬集落と川原平集落という集落があって、私は10年くらいそこの調査をしてきました。いわゆる山村で、ブナを始めとした山林を切り開き、炭や薪を取り、それを弘前の町に送り出すという、生活の半分を林業で生計を立てていた地域でした。残り半分はというと、かなり自給的な側面が強かった。川原平は昭和40年代まで米ができないところでしたので、山林を切り開いた土地で焼き畑をしたり、漁労やマタギ、山菜やキノコを採集して糧としていた。

「川原平」という名前からして江戸時代頃に出来たけっこう新しい集落だと見ているのですが、実はそこから縄文の土器がごつごつ出てきています。縄文時代の集落と今の集落が直接結びあっているわけではないのでしょうけれど、今の辻先生の話を聞いて遠いと思っていた縄文時代がすごく近しいものに感じられました。

 今言った集落はすでにダムの底に沈んでしまいました。過疎・少子高齢化が進み、そこにダム建設が入ってきて、もうそろそろ山を下りようという雰囲気になったんですね。山間部でも沿岸部でもそうですが、そういういわゆる「限界集落」があるところには縄文遺跡がある場合が多いと思います。水田がなくても生活できたような場所が、いつの間にか一番住みにくい場所ということになってしまった。でもそうなったのは、実はたかだか数十年の話なんですよね。

 

辻 日本の生活文化を論ずる時に、水田稲作農法が農業の基本であり、奈良時代に律令国家が成立して以来、国家の基盤であるという捉え方をされてきた。しかし、日本の風土というのは米を作るのにすごく不利な場所なんです。水田稲作農法を国家的プロジェクトとして、耕地面積を拡大していったのは、どうしても日本人が好んでやったとは思えません。為政者が政治的にそうした可能性が高いと思います。弥生文化という渡来の文化が日本に来た時に、それが日本の風土に適しているかを考えずに国家的基盤としてしまった。

 中世・近世は小氷期と言われるものすごく気候が寒冷化していた時期でした。なのに、東北地方でも強制的に米を作らせていた。私たちはそういう歴史があったことを知っておかなくてはいけません。

 

赤坂 僕は以前から稲作中心史観と呼ばれる、何でも水田稲作を中心として文化や歴史を語るという作法が東北では絶対成立しないと思っていました。実際、東北を歩いてみても田んぼでは米ではなくヒエを作っていたり、焼き畑など畑作を中心とした農業や、漁労や狩猟、林業を複合的に組み合わせたものが生業の当たり前の形でした。にもかかわらず、学者は稲作中心史観をいう先入観に縛られてしまっているのです。

 図4の集落の後ろに水田がありますが、これだけでは集落の人達が生きていけるわけがありません。焼け畑をし、林業を営み、狩猟を行い、湾の中の貝を拾ったり外の魚をとる漁業といったものが全部合わさって生活が成り立っていたのだと思います。

 先ほど言った南相馬市では、人口増加に対応する対抗策として水田をひたすら拡張するという国家的な意志が働いて、内海を全部塞いで田んぼにしてしまった。それが、今回の津波によってきれいに洗われてしまったわけです。(縄文ファイル No.191より一部抜粋)