◆海と火山と縄文人

平成26年12月6日(土)、東京大学柏キャンパスにて第107回縄文塾が開催された。「海と火山と縄文人」のテーマで、東京大学大学院教授・辻誠一郎氏が行った講演の内容を掲載する。

環境史から見た災害

 環境史とは、人間と環境との関わりの歴史のことです。環境史研究は世界的にはアメリカやカナダ、オセアニアなどで盛んに行われていますが、日本では大変遅れている分野です。

 環境史の観点から環境変動を見ますと、地球環境はいよいよ活発な変動期に入ってきたと言えます。近年の災害では「未曾有」という言葉がよく使われますが、これから私たちはこの数百年あるいは数千年の間体験したことのない「未曾有」の環境変動に頻繁に出くわすことになるかもしれません。

 今回は「海と火山と縄文人」という題目で、縄文時代の巨大な火山噴火と、気候変動によって起こる海水準変動についてお話していきたいと思います。これは2014年度の是川縄文館秋季企画展の題目であり、海水準変動と火山噴火が縄文人の生活に大きくかかわったことを具体的に示す展示でした。その主題についてお話しすることで、縄文人の生きざまを理解していただきたいのです。


火山噴火と地形変動

 図1は古八戸湾をめぐる海と陸の分布の変化と、数度にわたって起こった十和田火山の巨大噴火を示したものです。気候変動は地球規模で起こっている寒暖の変動のことです。気候の寒冷化や温暖化によって海面変動が引き起こされます。温暖化が起これば氷河が溶け、それが海に戻るわけですから海面が高くなります。寒冷化が起こると海の水が水蒸気となり、偏西風の風下側に送られて雪氷となるのです。その結果海面は低くなるわけです。

 日本近海や太平洋で吸い上げられた水蒸気はどこにいくのか。今年の大型台風がどういうふうに進んだかよくご存知だと思います。九州あたりで方向を変え偏西風に乗って北海道の方に向かいました。水蒸気はさらに北米やグリーンランドあたりまで行って、そこで雪氷となるわけです。大西洋の場合はスカンジナビアに行きます。それは過去の巨大な氷河の痕跡を見るとよくわかります。偏西風に乗っかって風下側では氷河ができたり、あるいはそれが溶けたりして海面変動が引き起こされるのです。

 図1の説明ですが、海面変動の0メートルが現在の海面で、時期によって+20mになっていたり、-40mになっていたりするのがわかるかと思います。ところが、海面の変動は海岸線の変動と必ずしも対応していないのです。海岸線の変動は地域によって異なるのです。

 例えば1万5500年前、十和田火山の巨大噴火が起こります。数度の激しい噴火によって大量の軽石が降りました。続いて火砕流が噴出しました。火砕流は八方に溢れ出し、20メートルから30メートルの厚さになって谷を埋め尽くしました。大量の火砕流は海側にもどんどん押し流されていって、長期間にわたって下流域を埋めていったのです。その後の急激な温暖化によって、約8000年前には海面が現在と同じ高さまで上昇しました。これによってできた古八戸湾や古奥入瀬湾は遠浅の干潟になったのです。大量の軽石や火砕流が平野を埋め立てていたからです。

 関東平野でも約8000年前には群馬県の板倉町まで海が入っていて奥東京湾と呼ばれていますが、八戸地域と比較してはるかに深い海なので干潟ができませんでした。貝塚の貝はほとんどがヤマトシジミでした。同時期の秋田県由利本荘市でも古本荘湾と呼ばれる内湾ができていましたが、同様に干潟ができていなかったので貝塚の貝はヤマトシジミばかりでした。埋め立てが早かったため干潟となった古奥入瀬湾、古八戸湾ではぶくぶくと太った大きなハマグリやオオノガイ、マガキがたくさん捕れたのです。

 青森湾でも大量の火砕流が流れ込んだことが知られていますが、なぜか貝塚がほとんどみられないのです。なぜ八戸の方だけ資源が豊かな干潟ができたのか。おそらく古奥入瀬湾のような小規模な内湾がなかったのでしょう。平野を埋め立て、海を埋め立てる速度だけではなくて、もっと他に理由があるのかもしれません。


縄文海進の時期

 1万5000年前からは気候の温暖化によって海面が急速に上昇し、8000年前までに現在の海面にまで達していました。海は陸側に進入したのです。これを縄文海進と呼んでいます。約8000年前の縄文早期には海進のピークに達していましたが、八戸地域での内湾は深い海でなく干潟になっていました。火山噴火による大量の軽石や火砕流の堆積によって遠浅の干潟となったのです。このような現象は特異です。

 図2は約8000年前の八戸地域を示したものです。このように現在奥入瀬川の流域に海が進入し、古奥入瀬湾という内湾ができました。高館段丘を隔てて南に古八戸湾や古新井田湾ができます。そのことはボーリングコアなどで確かめることができます。

 この時代の重要な遺跡として、八戸市の長七谷地貝塚とおいらせ町の日ヶ久保貝塚があります(図3)。このふたつの遺跡は古奥入瀬湾を挟んで対峙するように位置します。二股になる内湾に出かけていって、干潟で採集活動をしていたことがわかります。これまでに知られている日本各地の縄文早期の貝塚を持っている遺跡を改めて確認してみると、約8000年前には海面が現在と同じくらいまで上昇していたことがわかってきました。約6000年前をピークとするこれまでの考えを改めなければなりません。

 八戸市の長七谷地貝塚や日ヶ久保貝塚、由利本荘市の菖蒲崎貝塚、群馬県板倉町の寺西貝塚、佐賀県佐賀市の東名遺跡など縄文早期の貝塚の年代は8000年前~8200年前とだいたい一致しています。この縄文時代早期あたりが縄文海進のピークと考えてもいいのです。これまでは三内丸山の集落が繁栄していた縄文時代前期から中期が縄文海進のピークだと考えられていましたが、これは改定しなければなりません。


変わる生業

 十和田火山では9200年前の南部軽石、5900年前の中掫軽石を噴出する巨大噴火が起こりました。とくに後者の巨大噴火で噴出した大量の火山灰は八戸地域の内湾を埋め立て、内湾に依存するという生業が成り立たなくなりました。

 青森県八戸市の是川縄文館のすぐ近くに縄文前期から中期の一王寺貝塚という遺跡があります。図4は当時の景観を復原したものですが、集住域の周りにクリ林があるのがわかるかと思います。

 私はかつて三内丸山遺跡をいろいろな方面から分析して同じような図を書いたことがありますが、そちらにも集住域周辺には広い範囲にわたってクリ林がありました。これは三内丸山遺跡に特有なものではなく、八戸の方を分析しても同じようになるのです。つまり、内湾環境に完全に依存するのではなく、内陸で植物性食料を得ることもできる生活になっているのです。私は、これは農林業であり、日本にも縄文時代から農耕があったと考えています。それはイネやムギといった一年草本ではなく、10年、20年と生き続ける樹木を栽培していたのです。

 これが青森平野や八戸地域だけに通用する特殊なものなのか、関東平野や他の場所でも通用するものなのか、今一度見直す必要があるのではないかと思います。


円筒土器文化の出現

 火山噴火に関してもうひとつ重要なのは、十和田火山の中掫軽石を噴火させた巨大噴火が縄文社会を一変させ、その結果として円筒土器文化をもつ社会が成立したのです。

 円筒土器文化の最初の土器は円筒下層aと呼ばれますが、これを放射性炭素年代で測定すると約5900年前になります。これは十和田火山の巨大噴火の年代とほぼ一致しています。巨大噴火によって噴出した火山灰より下位からは円筒土器は出てこないのです。

 図5は三内丸山遺跡、同時期の大矢沢野田遺跡、そしてまったく人の居住の痕跡がない八甲田山の田代平の植生を比較したものです。

 まず八甲田山中を見ていただきますと、火山噴火によってブナ林が壊滅的状態になり、ミズナラ林に取って代わられます。ブナ林が回復するまで400年かかっているのがわかるかと思います。

 三内丸山遺跡と大矢沢野田遺跡ではどうだったかというと、クリ林が一気に広がっているのがわかります。それが1900年間も途切れることなく続いています。生態学の常識から言いますとこのようなクリ林は自然では絶対にありえないものです。これはここに居住した人々がクリ林を維持・管理したということが言えると思います。

 八戸地域でも巨大噴火直後からクリ林になっています。同じ事が東北地方を中心にかなり広い範囲で起こっている可能性が高いのです。今後の調査によっては円筒土器文化を特徴づけるものであることがわかるかもしれません。

 また、巨大噴火以前の遺跡と噴火直後の遺跡の数を調べると、後者の方が急激に増えていることがわかります。三内丸山遺跡のような拠点集落が形成され、集落の規模も大きくなっています。何よりも円筒土器文化が突然成立し、出土する土器の数も以前とは比較にならないくらい多いのです。

 縄文人は約5900年前に十和田火山の巨大噴火に見舞われました。壊滅的打撃を受けたのだから、人口は少なくなったと考えるのが一般的だと思います。ところが実態はそうではなく、円筒土器文化が噴火の直後に出現し、東北北部から北海道南部にかけて一気に分布域を拡大したのです。被災しているにも関わらずどうしてこんなことが起こるのか。これについては考古学も、環境学のような周辺科学もあまり真剣に考えてはこなかったのです。もしかすると、他の地域からいろんな人が入ってきて、新しい家族や社会を作った可能性もあります。そして人口は急激に増大したかもしれません。この巨大噴火は遠方の大陸側でも確認できた可能性があります。いったい巨大噴火後にどのような縄文社会の変化があったのでしょうか。災害を乗り越えるとはどのようなことだったのでしょうか。今のところはミステリーとしかいいようがありません。

(要約・抜粋)